「二十四節気に合わせて心と体を整える“大暑”」

二十四節気(にじゅうしせっき)を意識しながら、自分の内側に耳を傾け、自然の流れに沿った食事を通じて、健やかで彩り豊かな毎日をおくる。第77回は「大暑(たいしょ)」です。

7月23日~8月6日頃の大暑は、1年で最も暑い時期です。「大暑は暑いから栄養満点の天ぷらを食べて厳しい夏を乗り切ろう!」といわれたことから毎年7月23日を「天ぷらの日」と制定し、スーパーなどでは天ぷらが全面的に売り出す様子が窺えます。

そもそも天ぷらの歴史は古く、室町時代にまでさかのぼります。天ぷらの語源は鉄砲の伝来とともに「南蛮料理」としてポルトガルから伝わったとされ、ポルトガル語の「テンポーラ」が語源とする説があります(※諸説あり)。テンポーラは“四季に行う斎日”という意味で、カトリック教徒がテンポーラに祈祷と断食を行い、その間に食べられていた料理。野菜や魚に小麦粉で衣をつけ、揚げられたそうです。

そして料理としての天ぷらの起源は「長崎天ぷら」とされ、安土桃山時代にポルトガル人が長崎に伝えた分厚い衣のフリッタ―だといわれます。天ぷらが一般的に庶民の味になったのは江戸時代初期。江戸期の料理本には「てんふらは、何魚にでもうどんの粉をまぶして油にて揚げる也。」とあり、今の天ぷらに近いものが食べられていたようです。江戸時代の江戸では、出稼ぎで単身赴任の人や独り身の職人、災害で家族や家を失った人が多く、長屋という台所のない一間の家で暮らしていたため、外食が多く屋台文化が発展しました。

江戸の屋台では「立ち食いスタイル」が一般的で、現在のファストフードのような位置づけだったそうです。そんな江戸の町の四大名物屋台フードは「すし」「てんぷら」「そば」「うなぎ」。江戸(関東)の天ぷらは、魚のみを天ぷらとし、魚以外の野菜などの具材は天ぷらとは別物(胡麻揚げ)とされていました。江戸前の新鮮な魚を竹串に刺し、今より分厚い衣をまとってじっくりと揚げて。それを現代で食べられる大阪の串揚げのように、ツボに入ったてんつゆ(かつおだし+濃い口しょうゆ+大根おろし)にドボンとつけて立ち食いしていたのだとか。値段も安く、あまり品の良い食べ物ではなかったようです。それが今のように高級な食べ物に変わったのは江戸末期。てんぷら粉に当時高級であった卵黄を使用した「金ぷら」を、お座敷で箸を使って食べるようになったことに始まるとされています。それまでの串刺しで分厚い衣のスタイルではなく、薄い金色の衣が美しく盛り付けられ会席料理に登場し始めました。(今回は江戸の天ぷらについて書きましたが、上方(京都・大阪)では天ぷら文化は全く異なります。そのお話はまた今度。)

この夏は屋形船に乗って、涼しい風を感じながら夏の天ぷらをいただいてみたいものですね…。

(オフィシャルメンバー:滝野香織)

参考 「SHOWA」HP
   「日本文化の醤油を知る」村岡祥次  

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